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叱られた青春時代(船上編)
辛かった寮生活を終え、船会社に就職した僕は、そこでも船員の諸先輩方から、またたくさん叱られました。でもそれは寮の先輩とは違い、船の仕事を後輩に伝承していくための本気のお叱りでした。そのおかげで僕は船乗りとして、いや人としても成長できた気がします。そして全力で叱ってくれた先輩たちに心から感謝しています。今回は、そんな船上での青春時代の苦い思い出をお話したいと思います。

(左上から、僕が乗船した原油タンカー、コンテナ船、LNG船、コンテナ船の荷役、船の係船索)

僕が大手外国航路の船会社に入社した当時、世界中の航路で、激しい海上運賃値下げ競争が巻き起こっており、少しでも船の運航コストを落としたい船会社は、給料の高い日本人船員をあまり多く抱えらなくなっていました。そこでどうしたかというと、資格(海技免状)を持たない、部員と呼ばれる船の現場作業員を日本人から、フィリピンやミャンマーの人に切り替えていったのです。
 僕が最初に乗船した数隻の船にはまだ、まだ少数でしたが日本人の部員がいました。かれらは当時50-60歳ぐらいで、資格はないけど中学出てから40年間ずっと船に乗っている、極端に言えば、現場の事は船長や機関長より知っているツワモノ達の生き残りでした。
 僕は海技免状をもった航海士ですので、彼らに指示を与える立場ですが、実際には全くの頭でっかちで船の運航、特に貨物の取り扱いや船体の整備作業については彼らの足元にも及びませんでした。立場上指示を出すと、10倍ぐらいの怒鳴り声が返ってきます。船の事を熟知しているツワモノから「そんな事もしらんのかお前は、学校で何を勉強してきたんじゃ!!」と言われました。声もでかけりゃ顔も怖い。かみ殺されそうな迫力で、最初のうちは足はスクムし涙は出そうになりましたが、それでも、頭を下げて仕事を教えてもらっていました。

 船の作業は常に危険と隣り合わせです。船を着岸するときのロープ作業でさえ簡単に見えても、ウインチの使い方を誤り均等にかけるべき張力をあやまって一つのロープに掛けてしまい、そこに船の動きが加わったりすると、直径10cm以上あるロープが「バーン!」と切断し、その切れ端が跳ね返って作業員が死亡したり、あるいは、僕の同期が乗船していたコンテナ船では、積荷中に船倉内に積んでいる冷凍コンテナの調整を行っていた作業員が、ガントリークレーンの操作員の死角に入り、真上からコンテナを積まれペチャンコになって死亡するという嘘みたいな事故もありましたし、同じ会社の船で、船の重量を調整するバラスト水を入れる巨大バラスト水タンク内の点検を一等航海士が、他のスタッフに連絡することなく、一人で入ってしまったため、それを知らない3等航海士が誤ってそのタンク内に注水し、溺死させてしまうという事故も起こりました。それ以外にも、転落死や酸欠、荷崩れによる死亡例等、命に係わる重大な事故が、ちょっとした油断で起こりうる身近な例として発生していました。  そいういう緊張感の中で、部員さんからたくさん怒鳴られ叱られながら、僕は彼らが本気で全力で僕を叱っている事に気づきました。「お前のほんのちょっとした気の緩みが人の命、お前の命に係わるんやぞ!」という彼らの気持ちが伝わってくると、彼らの迫力に負けず、必死で仕事を覚えようとしている自分がいました。そしてそこで叩き込まれた、現場作業の基礎は、その後僕が船で仕事する上で、大きな武器になりました。

 特にお世話になった部員さんが二人いました。九州(長崎と鹿児島)の方でした。長崎出身のYさんは小柄な方で、性格も温厚でしたが、作業中は厳しく手順を間違うと、容赦なく(この小さな体のどこから出るんやと思う程の)とんでもない大きな怒鳴り声で注意されました。僕はYさんに、船体の整備作業を一から教えてもらいました。船は鉄でできているので年月と共に錆びてくるのですが、その錆をジェットタガネという電気工具で叩き飛ばして、その上から何重にもペンキを塗ります。一見簡単な作業に見えますが、油断すると剥離した錆の塊が目に突き刺さって失明する事もあります。また、ペンキの種類もたくさんあり、シンナーとの混ぜ方も難しい。そういった作業は、僕に教えるよりも自分達でやった方が早いとおもうのですが、嫌な顔もせずに一から教えてくれました。  僕は本来、航海士として作業を指示する立場で、自分のデスクワーク仕事が沢山あったのですが、Yさんの気持ちにこたえようと睡眠時間を削って現場に出ていました。Yさんと下船される間際に話した時に、僕を息子を見るような暖かい目で見つめてくれた、そのYさんの表情は今でも忘れる事ができません。

 鹿児島出身のAさんとは天然ガス運搬船でご一緒しました、無口でツンツンというかピリピリした人でした。僕の事をバカにしたような態度で普段からあまり口をきいてもらえませんでした。その船は岸壁に着岸する時使うロープを、他の船の様なナイロンのロープではなく、ワイヤーロープを使っていました。重くてかたいワイヤーロープの使い方に不慣れな僕が、マゴマゴしていると、Aさんは、「どけっお前!」と僕を押しのけて、自分で操作をしました。教えてくれるわけでもなく、Aさんは背中で「お前なんかはまだまだじゃ」と語っていました。3隻目の船で多少なりとも自信を付けていたので、あまりに悔しさに全身が熱くなりましたが、僕はAさんの操作を瞼に焼け付けて覚えようと、瞬きもせずにその技術を吸収し、その後も何度も何度も作業手順を繰り返して覚えました。
その後航海を重ねるうちに、Aさんの僕に対する態度が嘘のようにどんどん柔らかくなってきました。時折笑顔も見せるようになり、仕事の相談さえしてくれるようになりました。下船時には、僕に、「君がいるから安心やな」というような事を言ってくれました。半分冗談だとは思いますが、その時僕は、やっとAさんに認められてきたのだと思い、目頭が熱くなりました。

 僕との船を最後に、お二人ともやめられ、連絡先もわからなくなってしまいました。あれだけ真剣にいろんな事を教えて頂いたのに、なぜあの時、せめて下船される時にもっと心からのお礼が言えなかったのだろうと、今でも思い出しては情けなさで胸が熱くなります。  僕はたくさん叱られる事によって、批判を受け入れ、自分をより厳しい目で見れる様になりました。また、人は歳を重ねると、叱ってくれる人が少なくなってきますが、僕は人に言われなくても自分自身をしかりつけながら成長させれるようになりました。  最近僕は思います。自分を本気で叱ってくれた人への感謝の気持ちは、やはり次世代の方々を叱って行く事で返していくしかないのではないかと。人に干渉したり、口を出したりするのが嫌いだった僕ですが、これからは頑張って積極的に後輩達を叱っていかねばと思います。そして、後輩達の見本になるように、自分自身も叱りながら成長させていきたいと思います。

 

2014-12-20 08:39:25