2019/05/09
計7日間の認知症介護実践者講習に参加してみっちり勉強しています。本当にたくさんの気づきを得ることができましたので、皆様にも知っていただきたいと思い、復習の意味も込めてここに記します。
今や誰がなってもおかしくない認知症(2025年には日本で700万人に達します)。
ではあなたは認知症の方の何をみて、この人認知症かも?と思われますか?
認知症によって現れる症状は大きく2つに分けられます。1つ目は「中核症状」です。これは認知症になると必ず出てくる症状で、以下のようなものがあります。
・記憶障害:特に近時記憶がすっぽり抜け落ちる
・見当識障害(時間):時間的感覚がなくなる。昼と夜や季節が分からない
・見当識障害(場所):道に迷う。トイレや電気のスイッチの場所が分からない
・見当識障害(人):知っているはずの人が分からない。家族が分からない
・実行機能障害:料理など作業の手順が分からない。物事の段取りがつかない
・失行:服が着れない。パズルができない。
・失認:人や物、音などを見たり聞いたりしても、それが何なのか認識できない
これらは、認知症になると(少しずつにせよ)必ず出てきます。避けることはできません。
一方、防ぐことのできる症状もあります。「行動・心理症状」です。これは、環境や周りの人の言動などによって引き起こされる二次的症状で、
妄想、徘徊、攻撃性、介護拒否、不適切な行動、昼夜逆転、焦燥
などがあります。これはみなさんが、認知症の人に対して一般的に持たれるイメージだと思います。
でも改めて言いますが、この「行動・心理症状」は、認知症になると必ず出てくるものではなく、環境や周りの人の言動によって引き起こされるものなのです。
どういうことかと言うと、、
認知症になると、今まで当たり前だった事が分からなくなったり、できなくなったりします。記憶障害で言えば、よくある「あれ何だったか思い出せない~」という記憶の一部消失ではなく、ある部分の記憶全体がすっぽり抜け落ちます。結果、記憶の連続性がなくなり、今自分がどういう経緯でこの場所にいるのか、なぜここに座っているのかが理解できなくなります。そこに見当識障害が加わると、自分のいる場所がどこなのか、そばにいる人が誰なのか、そして今は朝なのか夜なのかも分からなくなります。
人間の脳は、そういうシビアな状況に陥った場合、僅かな手がかりやヒント、自分のまだ持っている知識などから、最も考えうるストーリーを作り出し、それを事実だと思い込みます。それは健常者から見ると、妄想です。
また、当たり前のことですが、自分のいる場所が分からなくなれば、それを確かめるために、周囲を歩き回ります。あるいは前述の妄想により、自分がこれからどこかに行かなければならないという結論に至れば、その自分の信じた目的地に向かって歩き出します。それは健常者から見ると、徘徊です。
また身体介助(例えばおむつ交換や入浴介助)において、誰か分からない人が、分からない事を言いながら、分からない表情で近づいて身体に触れらたり動されたりした時、自分を守るため大声を出して拒絶反応を起こします。それは健常者から見ると、攻撃性であったり介護拒否となります。
つまりこれらの、健常者から見れば不適切な行動は、本人にとっては意味のある、目的のある行動なのです。ここに、認知症の理解、そして「行動・心理症状」を起こさせないケアの鍵があります。(「困った人」 → 「困っている人」の認識変更)
このユーチューブ映像を御覧ください。
(https://youtu.be/7kKAq6lHge/hp/link.html) 映画館で(故意に)予定と違う映画が流されました。すると観客はざわつき、お大きな声を出したり、立ち上がったり、放映室に向かって手を振ったりしました。 知らない人がこの場面を見れば、観客の行為は明らかに不適切な行動です。
でも観客からすれば、違う映画が流されたという理由があるように、認知症の方の一見不適切に見える行動にも理由が存在します。つまり見たい映画(求めている物)に対して、違う映画(違う物)を見せられているからこそ出てくるのです。
認知症のケアにおいて、現れた症状を、その理由を探ることなく、単なる異常な行動とみなせば、無理やり静止したり、おやつを出すことによってごまかそうということになります。でも残念ながらそのようなやり方では収まらないどころか、さらなる焦燥感を生み出します。
出てくる症状の理由を知ることが認知症に対するあるべきアプローチとなるのです。
もちろん、十人十色の性格や歩んでこられた人生に起因する事が多く、それを知るのは容易ではりません。でも、それを探ろうという姿勢こそが、これからの認知症ケアに求められるものなのです。
いま、認知症介護における新たな理論「パーソン・センタード・ケア(その人中心のケア)」の考え方が求められています。
その人を中心に考えるというのは、昔から何度も言われて来たことですし、何も新しくないという気がするかもしれません。
でも、その人中心と言いながら、自分の(健常者の)価値観で、認知症の方の行動を判断し、本人の同意のないまま是正しようとしたり、その人の個性を見ずに「認知症の人」という目で見てたり、或いはしてあげるというケアをしている人はまだまだ多いのです。
長谷川式という認知症検査を考え出された長谷川和夫先生の著書から抜粋します。
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(ある物語)
足元のおぼつかない幼い子(1歳半位)が公園を歩いていました。ところが何かのはずみで転んで泣き出しました。するとそこに4歳くらいの女の子が駆け寄ってきました。 助け起こすのかなと思っていたら、女の子は倒れている小さい子の傍らに自分も腹ばいになり、幼い子を見てにっこり笑いかけました。
泣いていた子もつられて泣きやみ、にっこりしました。
女の子が「起きようね」というと、小さな子も「うん」と言って一緒に立ち上がり、手をつないで歩いていきました。
『認知症ケアの心』ぬくもりの絆を創る 長谷川 和夫著
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ケアが必要となった人に駆け寄り、そして上から引き起こすのではなく、まずその人の視点に立って、その人の力を信じて笑顔で声掛け促しをする、まさに「パーソン・センタード・ケア」の原点を示すようなお話です。
認知症の人は、認知機能(を担当する神経細胞)が障害を受け、言葉も失っていくため自分の不安や望みを訴えることはできませんが、感情や意欲は失われず「心」は生きています。言葉に出せない想いを、みつけてあげることのできる。そんな介護者になりたいと思います。
『私たちには言葉よりも、あなたがそばにいてくれること、私たちと思いを分かち合ってくれることが必要だ。私たちの感情と精神は、まだここにいるのだ。あなたが私たちをみつけてさえくれるなら』(「私は私になっていく-痴呆とダンスを」クリスティーン・ブライデン著)
2018-09-30 12:52:38
今や誰がなってもおかしくない認知症(2025年には日本で700万人に達します)。
ではあなたは認知症の方の何をみて、この人認知症かも?と思われますか?
認知症によって現れる症状は大きく2つに分けられます。1つ目は「中核症状」です。これは認知症になると必ず出てくる症状で、以下のようなものがあります。
・記憶障害:特に近時記憶がすっぽり抜け落ちる
・見当識障害(時間):時間的感覚がなくなる。昼と夜や季節が分からない
・見当識障害(場所):道に迷う。トイレや電気のスイッチの場所が分からない
・見当識障害(人):知っているはずの人が分からない。家族が分からない
・実行機能障害:料理など作業の手順が分からない。物事の段取りがつかない
・失行:服が着れない。パズルができない。
・失認:人や物、音などを見たり聞いたりしても、それが何なのか認識できない
これらは、認知症になると(少しずつにせよ)必ず出てきます。避けることはできません。
一方、防ぐことのできる症状もあります。「行動・心理症状」です。これは、環境や周りの人の言動などによって引き起こされる二次的症状で、
妄想、徘徊、攻撃性、介護拒否、不適切な行動、昼夜逆転、焦燥
などがあります。これはみなさんが、認知症の人に対して一般的に持たれるイメージだと思います。
でも改めて言いますが、この「行動・心理症状」は、認知症になると必ず出てくるものではなく、環境や周りの人の言動によって引き起こされるものなのです。
どういうことかと言うと、、
認知症になると、今まで当たり前だった事が分からなくなったり、できなくなったりします。記憶障害で言えば、よくある「あれ何だったか思い出せない~」という記憶の一部消失ではなく、ある部分の記憶全体がすっぽり抜け落ちます。結果、記憶の連続性がなくなり、今自分がどういう経緯でこの場所にいるのか、なぜここに座っているのかが理解できなくなります。そこに見当識障害が加わると、自分のいる場所がどこなのか、そばにいる人が誰なのか、そして今は朝なのか夜なのかも分からなくなります。
人間の脳は、そういうシビアな状況に陥った場合、僅かな手がかりやヒント、自分のまだ持っている知識などから、最も考えうるストーリーを作り出し、それを事実だと思い込みます。それは健常者から見ると、妄想です。
また、当たり前のことですが、自分のいる場所が分からなくなれば、それを確かめるために、周囲を歩き回ります。あるいは前述の妄想により、自分がこれからどこかに行かなければならないという結論に至れば、その自分の信じた目的地に向かって歩き出します。それは健常者から見ると、徘徊です。
また身体介助(例えばおむつ交換や入浴介助)において、誰か分からない人が、分からない事を言いながら、分からない表情で近づいて身体に触れらたり動されたりした時、自分を守るため大声を出して拒絶反応を起こします。それは健常者から見ると、攻撃性であったり介護拒否となります。
つまりこれらの、健常者から見れば不適切な行動は、本人にとっては意味のある、目的のある行動なのです。ここに、認知症の理解、そして「行動・心理症状」を起こさせないケアの鍵があります。(「困った人」 → 「困っている人」の認識変更)
このユーチューブ映像を御覧ください。
(https://youtu.be/7kKAq6lHge/hp/link.html) 映画館で(故意に)予定と違う映画が流されました。すると観客はざわつき、お大きな声を出したり、立ち上がったり、放映室に向かって手を振ったりしました。 知らない人がこの場面を見れば、観客の行為は明らかに不適切な行動です。
でも観客からすれば、違う映画が流されたという理由があるように、認知症の方の一見不適切に見える行動にも理由が存在します。つまり見たい映画(求めている物)に対して、違う映画(違う物)を見せられているからこそ出てくるのです。
認知症のケアにおいて、現れた症状を、その理由を探ることなく、単なる異常な行動とみなせば、無理やり静止したり、おやつを出すことによってごまかそうということになります。でも残念ながらそのようなやり方では収まらないどころか、さらなる焦燥感を生み出します。
出てくる症状の理由を知ることが認知症に対するあるべきアプローチとなるのです。
もちろん、十人十色の性格や歩んでこられた人生に起因する事が多く、それを知るのは容易ではりません。でも、それを探ろうという姿勢こそが、これからの認知症ケアに求められるものなのです。
いま、認知症介護における新たな理論「パーソン・センタード・ケア(その人中心のケア)」の考え方が求められています。
その人を中心に考えるというのは、昔から何度も言われて来たことですし、何も新しくないという気がするかもしれません。
でも、その人中心と言いながら、自分の(健常者の)価値観で、認知症の方の行動を判断し、本人の同意のないまま是正しようとしたり、その人の個性を見ずに「認知症の人」という目で見てたり、或いはしてあげるというケアをしている人はまだまだ多いのです。
長谷川式という認知症検査を考え出された長谷川和夫先生の著書から抜粋します。
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(ある物語)
足元のおぼつかない幼い子(1歳半位)が公園を歩いていました。ところが何かのはずみで転んで泣き出しました。するとそこに4歳くらいの女の子が駆け寄ってきました。 助け起こすのかなと思っていたら、女の子は倒れている小さい子の傍らに自分も腹ばいになり、幼い子を見てにっこり笑いかけました。
泣いていた子もつられて泣きやみ、にっこりしました。
女の子が「起きようね」というと、小さな子も「うん」と言って一緒に立ち上がり、手をつないで歩いていきました。
『認知症ケアの心』ぬくもりの絆を創る 長谷川 和夫著
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ケアが必要となった人に駆け寄り、そして上から引き起こすのではなく、まずその人の視点に立って、その人の力を信じて笑顔で声掛け促しをする、まさに「パーソン・センタード・ケア」の原点を示すようなお話です。
認知症の人は、認知機能(を担当する神経細胞)が障害を受け、言葉も失っていくため自分の不安や望みを訴えることはできませんが、感情や意欲は失われず「心」は生きています。言葉に出せない想いを、みつけてあげることのできる。そんな介護者になりたいと思います。
『私たちには言葉よりも、あなたがそばにいてくれること、私たちと思いを分かち合ってくれることが必要だ。私たちの感情と精神は、まだここにいるのだ。あなたが私たちをみつけてさえくれるなら』(「私は私になっていく-痴呆とダンスを」クリスティーン・ブライデン著)
2018-09-30 12:52:38