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介護の本質
今日は介護の勉強を通じて、コミュニケーションの本質を学んだというお話をします。

私は今年から介護の仕事にも携わるようになり、とりえずヘルパーの資格を取ろうということになりました。

皆さん、いわゆるヘルパーさんの仕事ってどんな事が頭に浮かびますか?おそらく多くの方が、排泄・お風呂・食事、の世話をする人というイメージだと思います。実際私もそう考えてましたし、ヘルパーの資格なんて実技指導を受ければすぐに取れる形だけのもので、あとは現場で実践あるのみと思ってました。しかし実際には、130時間(1日7時間として19日間)ものカリキュラムがあり、しかもその半分以上が座学で、その座学のメインがなんと、いかに相手の事を理解し、そしてどうやって自分を受け入れてもらえるようにするかという、介護技術というよりむしろ話し方教室で教わるような内容だったので、非常に驚きました。

講習のボリュームが増え、中身も実技中心から座学が増えたのには理由があります。考えてみて下さい、排泄・入浴・食事の介助と簡単にいいますが、みなさんは他人の前で裸を見られたり、良く知らない人に自分の部屋に入るなりオムツ(下着)の中を確認されたり、正面から足を開いて陰部洗浄されたとしたら、どんな感情が起こりますか?年齢とともに嚥下機能が低下して、食事を飲込むのに時間がかかる人がいます。油断すると食べ物が気管に入りそうになります。皆さんがそのような状態の時、信用していない人があなたの食事介助について、食事を口の中に運び入れたら、落ち着いて食事を楽しめますか?皆さんであればその様な介護は全て拒絶すると思います。しかし、残念ながら実際に介護を必要とする立場になれば、他人の手に身をゆだねるしかなくなります。自分の気持ちをわかってもらえない、恥ずかしくて情けない介護です。

では一方で、介護する側はどうでしょう?たくさんの高齢者の相手をしながら、短時間に事故なく作業を終わらせることでいっぱいいっぱいで、相手の気持ちまで考える余裕はとてもありません。いそがしくてきつくて、しかも相手から感謝というエネルギーを受け取る事のない全くやりがいの生まれない介護の仕事。自然と介護というものが、お互い心の通い合う事のない殺伐としたものとなります。それがこれまで多くの施設で行われてきた介護です。介護する側もされる側も疲れ切っています。

あと10年もすれば団塊の世代が80代に突入し、すごい勢いで高齢者が増えている今、このような介護の現状を変えることは待ったなしの課題であり、だからこそヘルパー講習のあり方が変わったのです。

では、いったいどのようにすれば、介護される側に自然と感謝の気持ちが生まれるような介護が出来るのでしょうか?今のヘルパー講習では、高齢者の気持ちを理解し、本人に生きる意欲を持ってもらうようにすることが大切であると教えています。なぜなら、高齢者、特に介護が必要な高齢者になると、自分たちは周りに迷惑を掛ける存在で、社会から必要とされていない、そういう疎外感からふさぎ込みがちになるからです。

しかし、最近になってわかってきたのは、介護を必要とする高齢者が意欲を失えば、自ら積極的に動こうとしなくなり、結果としてADL(日常生活を行う上で最低限必要な動作能力)も悪化する。そしてそれが結局、介護する側にとってさらなる負担になるという悪循環に陥ってしまうという事です。

これからの介護士は、相手の事を、介護の必要なおじいちゃん、認知症のおばあちゃん、というように、病気や身体の状態だけに注目するのではなく、これまで長い人生を歩んできた、一人の人間として相手のことを尊重し、そして生きる意欲をもってもらう事が大切です。そうすれば、介護する側される側両者に絆が生まれると同時にADLの改善も期待できます。

最後に、イギリスの高齢者施設で亡くなられたある老婦人が残した日記を皆さんにご紹介したいと思います。これは亡くなられた後に手荷物の中から見つかったもので、それを見た施設長が施設スタッフ全員への貴重な教育教材として利用したものです。

———————— 何が見えるの、看護婦さん、あなたには何が見えるの
あなたが私を見る時、こう思っているのでしょう
気むずかしいおばあさん、利口じゃないし、日常生活もおぼつかなくて
目をうつろにさまよわせて
食べ物をぼろぼろこぼし、返事もしない
あなたが大声で「お願いだからやってみて」と言っても
あなたのしていることに気づかないようで
いつもいつも靴下や靴をなくしてばかりいる
おもしろいのかおもしろくないのか
あなたの言いなりになっている
長い一日を埋めるためにお風呂を使ったり食事をしたり
これがあなたが考えていること、あなたが見ていることではありませんか
でも目を開けてごらんなさい、看護婦さん、あなたは私を見ていないのですよ
私が誰なのか教えてあげましょう、ここにじっと座っているこの私が
あなたの命ずるがままに起き上がるこの私が
あなたの意志で食べているこの私が、誰なのか
私は十歳の子供でした。父がいて、母がいて
きょうだいがいて、皆お互いに愛し合っていました
十六歳の少女は足に翼をつけて
もうすぐ恋人に会えることを夢見ていました
二十歳でもう花嫁。守ると約束した誓いを胸にきざんで
私の心は踊っていました
二十五歳で私は子供を産みました
その子たちには安全で幸福な家庭が必要でした
三十歳、子供はみるみる大きくなる
永遠に続くはずのきずなで母子は互いに結ばれて
四十歳、息子たちは成長し、行ってしまった
でも夫はそばにいて、私が悲しまないように見守ってくれました
五十歳、もう一度赤ん坊が膝の上で遊びました
愛する夫と私は再び子供に会ったのです
暗い日々が訪れました。夫が死んだのです
先のことを考え ー 不安で震えました
息子たちは皆自分の子供を育てている最中でしたから
それで私は、過ごしてきた年月と愛のことを考えました
いま私はおばあさんになりました。自然の女神は残酷です
老人をまるでばかのように見せるのは、自然の女神の悪い冗談
体はぼろぼろ、優美さも気力も失せ、
かつて心があったところにはいまでは石ころがあるだけ
でもこの古ぼけた肉体の残骸にはまだ少女が住んでいて
何度も何度も私の使い古しの心はふくらむ
喜びを思い出し、苦しみを思い出す
そして人生をもう一度愛して生き直す
年月はあまりに短すぎ、あまりに速く過ぎてしまったと私は思うの
そして何ものも永遠ではないという厳しい現実を受け入れるのです
だから目を開けてよ、看護婦さん ー 目を開けて見てください
気むずかしいおばあさんではなくて、「私」をもっとよく見て!
(パット・ムーア著『私は三年間老人だった』より)
———–朗読—————-



残念ながら看護師さんの目には、この女性が、のろまで恐ろしく手のかかるおばあちゃんとしか映っていませんでした。でもこの女性の内側には外見からは想像できない、喜びと悲しみの人生の軌跡、そして深く豊かな感性が存在していました。相手を理解し、そしてお互いに理解しあう事、これは人と人とのコミュニケーションの原則です。しかしそれを実践するためには相手の内側にある人としての本質的な価値を見つけようとする想像力が必要なのです。そんな想像力を私は介護の世界で磨いていきたいと思います。

2016-12-12 07:29:56